浅虫を発つ朝、「恐山に行く」と言ったら、宿の仲居さんの顔つきが曇った。あんなとこに行くのはおよしなさい、せっかく天気がいいのだから、なにも好き好んで行くような場所ではない。
至極真面目に、そうおっしゃる。どうしても行くというのならと、厨房から塩を包んで持ってくる。必ず身を清めるようにと念を押され、ようやく送り出してもらえた。
陸奥湾沿いにクルマを飛ばす。途中までバイパスが出来ていて、至極快適。むつ市まで開通すれば、青森・下北間のアプローチが短くなるだろう。ところどころ、風力発電のプロペラが回っているあたり、下北だな〜。軽快ドライブ。2時間で到着。
恐山は、日本三大霊山(恐山、高野山、比叡山)であり、日本三大霊場(恐山、白山、立山)、さらには日本三大霊地(恐山、立山、川原毛)でもある。そういえば、映画「剣岳 点の記」では、立山信仰が描写されていたね。
さてさて。帰京後、今回の旅程を書き連ねてきたが、告白すると、恐山に関してはソコソコ思うこともあったのだが、書けば書くほどわからなくなる。うまくまとまりそうにないんだけど、誤解を恐れず言ってしまおう。ヨソ者の立場で甚だ不謹慎ではあるが、恐山は、じつに興味深い場所なのだ。
ここでは、生と死が同居している。天国と地獄、荘厳さと気味の悪さ、不浄と神聖、とにかくそういった、本来であれば相反するものが同時に存在している。
立ちこめる硫黄臭、荒涼とした風景。積まれた小石。なるほど、死後の世界というものがあるとすれば、こうした風景なのかもしれない。
死を迎えた旅人が困らないようにと、生前身につけていた衣服や靴、ステッキが奉納されている。また、道中困らないようにと、手ぬぐいが樹々に巻かれている。そして水子のためにとお供えされた、かざぐるま。
どんなことを感じるかは、人それぞれだ。遺族が、死者に対して抱く思いや、それを具現化する方法も。
カラカラと回る原色のかざぐるまは、生まれてくることがかなわなかった我が子に対する供養、つまり愛情の現れだが、ある種、異様なオーラを醸している。
いっぽうで恐山には、天国のような美しい風景もある。涅槃とでも言うべきか。山上湖・宇曽利湖の水はどこまでも清らかな透明を誇り、誰かの骨だと言われれば信じてしまいそうな、ウソのように白い砂浜を洗っている。死者と酌み交わしたのか、酒やビールがお供えされてたりもする。
ここには、「あの世のすべて」がある。だから訪れた人は、たとえ物見遊山の観光客だったとしても、いやがおうにも生と死について思いを馳せることになるのだ。
いまはどうにも、これ以上の言葉が出てこない。また思うことがあったら、なにか書くかもしれないけれど。
あ、ひとつだけ、イタコについて。イタコの口寄せは、7月の例大祭とか大きなイベントのときだけらしいんだけど、あんなのインチキだと言うひともいれば、いやアレは一種のセラピーなのだという意見もある。沖縄のユタに比べると、イタコは世間的にキワモノ度が若干高いような気もするけれど、今ふうに言えばどちらもシャーマンだよなあ、と思ってみたり。
ところで、恐山にはもうひとつの顔がある。温泉だ。そりゃ、あんだけ硫黄が噴き出してれば、温泉だってあって当たり前だ。
境内には掘建て小屋風の湯殿がみっつ。さすがに混浴とはいかず、男湯と女湯に別れていて、引き戸を開けると、ちょっとした脱衣所と湯船があるだけのシンプルなつくり。白濁したお湯がいいカンジです。さらには最近建て替えられたという立派な宿坊もあって、1泊12000円くらいで泊まることもできる。温泉つきで、精進料理がなかなかに美味いらしい。今回はパスしたけれど。
観光客がワンサと押し寄せるにも関わらず、ここの風呂はどうも不人気です。さすがにタオルまで用意してくるような人はあんまいないか。私はゆっくりと楽しませてもらいましたが。ちなみに、小屋自体は相当な年代物だけど、中は掃除が行き届いていて清潔。じつに気持ちよいです。
仕上げは、恐山名物のヨモギアイス。いろんな味をミックスした「恐山盛り」なんつうのもあります。さすがにそれってどうよ?と思いつつ、塩でお清め。いざ大間方面へ。
生と死に思いを馳せるロケーションってそうそうないぞ。
情緒不安定な時は行けないな。
でも行ってみたいな。。。
>情緒不安定な時は行けないな。
まさに、その通りだと思う。