宮古駅前のビジネスホテルを早朝出発。まずは海沿いの国道45号を目指す。昨夜はあまり目につかなかったが、市庁舎のあたりまでくると、1F部分がベニヤ張りの建物が非常に多い。当たり前だけど海に近くなればなるほど、津波の被害は甚大だ。
連休はこの日が最終日。夜には帰京せねばならない。道の状態にもよるが、おそらくは宮古から気仙沼まで行くのが時間的に精一杯だ。とはいえ、急いで南下はせず、宮古のやや北に位置する田老(たろう)を目指し北上する。
今回、東北に来る直前に、深夜のNHKで田老の防潮堤について検証する番組を見た。高さが10メートル・総延長2.5キロ。万里の長城とも称され、二重に町を防御していた。それがいとも簡単に突破され、かえってその形状から津波の威力が増幅したとさえ言われる。津波の大きさを実感するためにも、やはり訪れておきたい。
宮古からは山間部を走り、ものの十数分。トンネルを抜けたらそこが田老だ。
息を飲んだ。テレビで何度も目にしていたような、津波にやられた被災地の姿があった。
漁協の建物が辛うじて残っているので、そばに車を停め、防潮堤に登った。
そこからの風景は、とても言葉で表現できるものではなかった。
田老では、過去に何度も津波による被害を受けた経緯があり、何年もかけてこの巨大な防潮堤を築き上げたそうだ。自慢の、鉄壁の防御はしかし、1000年に一度とも言われる今回の津波を受け止めることはできなかった。
いま、自分はその上に立っている。ここを軽々と越えた津波。そのスケール感が、なかなか実感できないものの、目の前に広がる風景は紛れもない現実だ。
十年以上も前になるが、東北の沢の中で、急な降雨による増水で命の危険を感じたことがある。ひざ下くらいの水位がみるみる上がり、腰下くらいにまでなると、とてもじゃないが水流の中で立っていることができない。10メートル以上の津波の力学的な破壊力は、まさに想像を絶する。
防潮堤の上をトボトボと歩く。
海側を見渡すと、外周の防潮堤の半分以上が損壊している。わずかに残されたガードレールなども含めて、そのほとんどが海側に倒れている。引き波に気をつけろ、という「ガープの世界」の台詞が頭の中にリフレインする。
「静岡県」と書かれた作業服を着た団体が、おそらくは視察なのだろう、あちこちを撮影していた。
茶色の大地となった田老の町並みは、ボロボロになったコンクリの基礎のみが残り、ところどころ夏草が茂る。休日の朝だというのに、何台かの重機が動いている。
ただ呆然、というよりも、ひたすら圧倒的な敗北感を感じていた。月並みかつ陳腐な言い回しだが、人類の叡智など、自然の猛威の前ではあまりにも無力だ。
果たしてこの町は、より高い防潮堤を新たに築くことになるのだろうか。それとも……。
田老の状況については、震災直後に書かれたものだが、こちらの記事がわかりやすいと思う。
http://yanagihara.iza.ne.jp/blog/entry/2202283/
計画によると、三陸各所の防潮堤補強は、今回の最大津波痕より高さが低いのがほとんどだね。
百年単位でまた大津波が来るであろうこの場所は、特異な地域性がある。
海は普段穏やかで、海産物が黙っていても陸に寄ってきて採れ放題。景色も絵のように素晴らしい。
しかし、大津波が来れば防潮堤内外問わず、その財産を時には命をも根こそぎ海にもって行かれる。
普段の生活や景観を考えれば堤は低いほうがいい。そして、その地域性を強く認識して、避難経路の確保とその避難シミュレーションは大事とし、それらに対応できる人のみ浜近くに住める、という条件にする。
建造物も永久ではない、ということも大前提である。
周囲の高台にも、津波に影響を受けない施設が必要で、大事なものはそこに疎開させる。
そんな制約が多くても余りあるほど、普段は豊かで過ごしやすい地域性があるのではないだろうか。
reportありがとう。
今回の教訓は、東北のエリアの話だけではないよね。
東京だって、生きている以上、いつ災害に会うかわからない。
うーん、うかつだった。
田老の復興計画は、とっくのとんまに出てたわ。
しかも、なんかスケール感がすごい。
もっとよく調べてから書けばよかったお。
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東日本大震災復興都市モデル計画
―岩手県宮古市田老地区をケーススタディーとして
東日本津波被災地復興のビジョンと方法―
http://www.trpt.cst.nihon-u.ac.jp/DESIGN/cts/report0601.pdf
あ、上はまだ単なる「プラン」ね。正式なモノじゃないので。