オータ君と出会ったのは、10代の頃だ。
高田馬場の駅前にムトウ楽器という楽器屋があったんだけど、昔の楽器屋だからバンドメンバーの募集のチラシ(電話番号を書いた部分を千切れるように切れ込みが入ってるようなやつ)がいっぱい貼ってあるわけです。
内容はよく覚えていないが、オリジナル曲をやってることと、なんとなくの音楽的志向が一致したのであろう。たまたま目に止まったチラシが、私とオータ君のバンドとを結びつけてくれた。
音楽的志向というのも曖昧な言葉だが、おそらくチラシには洋楽ではストーンズ系、邦楽では、たぶん確実にRed Warriorsの名前はあったはずだ。
なぜなら顔合わせのときに、課題曲としてRed Warriorsの曲をいくつか演奏した記憶があるからだ。
私はどうやらおメガネに叶ったらしく、晴れてオータ君のバンドのベーシストとして採用された。
オータ君はライブ終盤のメンバー紹介のとき、必ず「オンドラムス、ワンナイトファッカーオータァ!」と呼ばれていた。もちろん、Red Warriorsのファースト・アルバムに収録されている、WIld Cherryという曲が元ネタである。
たぶん、1回だけナンパに成功した武勇伝をドヤ顔で話した結果、メンバーの不興を買い、このような不名誉な二つ名で呼ばれるようになったのだろう。
ギターのイトー君、ボーカルのマツモトも個性的なメンバーだった。彼らについても書きたいことはいっぱいあるんだけど、やっぱりワンナイトファッカーと呼ばれた男・オータ君は、Red Warriorsについて書こうとしたとき、どうしても触れずにはいられない。
そう。私はRed Warriorsについて書こうとしている。
理由は単純で、先日再結成のライブに行ったからだ。
じゃあまずは、順番通りレベッカのことからいこう。
レベッカがデビューした頃、私は地方で高校生をしていた。ギターバンドで女子ボーカル。やけに面白いバンドが出てきたなと、12インチ(つまりLPサイズ)のミニアルバムは1stも2ndも買ってよく聴いたものだ。
バンドのフロントは、もちろんNOKKOである。ちなみに彼女は11月生まれということで、おばあちゃんがNovemberから信子と命名したらしい。きっと本人はNovemberだかなんだか知らないが、もうちょっとカッコいい名前を付けてほしかったんだろうと思う。ノブコなんかじゃなくて、NOKKOである!という叫びが、そこから聞こえてくるようだ。あ、このへんどうでもいいですね。
で、バンドの中心というかリーダーはギターの木暮武彦である。シャケという二つ名を持つが、Shakeのaがウムラウト付きであり「それじゃシェケにならんのだろか?」といつもボンヤリ考えたものだ。これもどうでもいい話。
ともあれレベッカはNOKKOとシャケが中心であるというわかりやすい図式のバンドなのだが、比較的キャッチーな曲はキーボードの人が作曲しており、それはそれでバランスが取れてる印象であった。
その後、よく知られているように「音楽性の不一致」を理由に木暮武彦とドラマーが脱退。実質的な「クビ」である。
ミニアルバムの3枚目からは、明らかにマドンナを意識した(というより丸パクリな)曲調や歌い方を前面に出し、マスマーケットを狙ってきたのだ。おそらくはCBSソニー(当時)の思惑があり、NOKKOもそれに乗ったということなのであろう。「君たちが売れるにはこの路線しかないんよ」的な感じのやり取りがあったことは明白である。それには、やれロックだ何だとうるさいギタリストはお払い箱にするしかない。
ビジネスとしては正しい判断だったのだろう。その後、結局のところレベッカは売れたし、ヒット曲も数多く出しているわけだから。
もちろん、木暮武彦の心中察するに余りある。もともと恋人同士でもあり、デビュー前にはいっしょにアメリカに行って現地での成功を模索した大切なパートナーに、結果的に裏切られたわけだから。
そりゃ厨二病をこじらせるレベルの話では済まない。
レベッカと、50音でもアルファベットでも、すぐ近くの棚に並ぶようにとRed Warriorsという名前のバンドを結成するというのも、若干痛々しさは感じるが個人的には多いに共感できる部分だ。こういうストーリーはわりと好きで、このバンドはデビュー前から注目していた。
薄紫の空に向かって 夜明けまで一人きり 誓いを立てよう
たとえお前が 俺の行く手に 立ちはだかろうとも 俺は前に進む
ちっぽけな 男だけど ギターを弾いて歌うことが出来る
ファーストアルバム最後の局、Guerrillaの歌詞である。どうですか、この哀愁。いろんないきさつを知った上で聴くと、より味わいが深まるよね。
いっぽうのレベッカは、Red Warriorsのことなどまるで眼中にないといわんばかりに、売れ線を追い求める。で、実際スターダムにのし上がる。片方が大成功し、片方は執着し続けるというのもこたえられない図式である。
ところでデビュー2枚目、CASINO DRIVEというアルバムは素晴らしいデキだった。先行リリースされた「バラとワイン」のミニアルバムはメイントラックも良かったが、ビートルズのカバー「I am the Walrus」が白眉。リズム隊の音がいやに重いロックチューンで、数あるビートルズのカバーの中で、今でも好きなアレンジだ。
CASINO DRIVEはけっこう売れたはずだし、このへんからファンになった人も多かったんじゃないかな。武道館でもライブしてたしね。
ある意味、このアルバムでレベッカとのあれこれを吹っ切れたのかもしれないなー、よかったねえ、などと思ったものだが、続くシングル「ルシアンヒルの上で」では、またしても渡米時代のNOKKOとのメモリーをベースに、これでもか!の哀愁モード全開である。
「まだ引きずってんだな!」と、もはやこのまま芸風になるんじゃないかと、心配とともに益々応援したくなったものだ。
ちなみにルシアンヒルというのは、サンフランシスコの地名。有名なロンバードストリート(クネクネの坂)のところにある。仕事でよく出張に行ったので、後年「ここかあ…」などと妙な聖地巡礼っぽいことをしたのは佳き思い出である。
Red Warriorsは、その後数枚のアルバムを出して、結局活動休止してしまった。
木暮武彦は、アメリカでCASINO DRIVEというバンドでブレイクを狙うが不発。なんだかんだで、その後NOKKOとヨリを戻し、結婚したはいいがすぐ離婚。再婚して子をなすが、また離婚。そのときの娘が回鍋肉の食べっぷりの良さで知られる女優の杉咲花である。
いま、木暮武彦は山梨の富士山のそばに住んでいて、原始神母というピンク・フロイドのコピーバンド(?)を中心に活動している。聴いたことはないけれど、ちょっとこれ興味があるんだよなあ。
さて、そんなRed Warriorsのライブ。有楽町国際フォーラム。10000人弱くらいの大きなハコである。
これがね、会場はモノの見事に自分と同年代のオッチャンオバチャンだらけなんですよ!
ひょっとしたら会場のどこかにオータ君がいるかもしれない……。そんなことをボンヤリ考えながら、2階席まで総立ちのノリノリの会場に若干気遅れしつつも、なんだか忘れ物を取り戻せたような気分になってシアワセでしたと、まあそーいう話です。
CASINO DRIVEに収録されている名曲で「John」というのがあるんですが、アンコールかなんかでこの曲を演奏してるとき、ボーカルのユカイ君がいきなりレベッカの「ステファニー」という曲の歌詞を乗せて歌い出したんです。
ギョッとしたね。なんだ、この曲ってどっちもコード進行同じじゃないか!と。もちろん、どっちも木暮武彦作曲なわけで。
こんなところでもレベッカのこと意識してたんかい!と、30年たっても新しい発見がありました。
終演後、汗まみれの加齢臭立ち込める会場を後にして、インデアンカレーでカレースパを食べて帰りました。
オータ君とやっていたバンドは、大学の学園祭の一番大きなステージのオーディションに落ちてしまい、解散することになった。
最後のライブではレパートリーをすべて演奏し、最後にRed WarriorsのCASINO DRIVEのコピーをやった。
解散後だったか、その直前だったか記憶が定かではないが、オータ君は当時付き合っていた女性を孕ませてしまい、相当なショックを受けていた。先方の家に謝罪にも行ってぶん殴られたりもしていた。とにかく本人たちを含めて周囲の人間みんなが嫌な思いになるしかない話だ。結婚するとかしないとかいう話もあったが、彼女は堕胎し、ほどなく別れたはずだ。
そういえば大学を出てから、一度だけオータ君と会ったことがある。まだ携帯電話など持ってなかった頃だし、おそらく自宅の電話に連絡があったんじゃないかと思う。
たしか横浜だったはずだが、彼の住むマンションを訪ね、朝まで酒を飲んだ。
理工学部を出たのに、オータ君は証券マンか何かになっていた。
Red Warriorsではなく、ダンス☆マンのCDが鳴っていた。
記憶は断片的でしかないけれど、僕とオータ君はリズムセクション特有のつながりを共有していた。ときには2人きりでオールナイトでスタジオに入ったりもした。
いい話だって、いっぱいあったと思う。なぜなら、オータ君のことを思い出すとき、必ず最後には彼の幸せを祈っている自分がいるからだ。