小豚YN
意外と余裕でいけた。食後も違和感なし。久しぶりの府中二郎だったが、やはりココは麺が良いね。親父も元気そうでなにより。
小豚YN
意外と余裕でいけた。食後も違和感なし。久しぶりの府中二郎だったが、やはりココは麺が良いね。親父も元気そうでなにより。
3年ぶりの投稿である。
この間、当たり前だがいろんなことがあり、良かったこともあれば悪かったこともあり、得たものもあれば失ったものもある。いちいち振り返るのも面倒なので、思い出したら書くかもしれないが、今日はとりあえずNHKの朝ドラ「ちむどんどん」のことに触れておきたい。
ブログ再開のキッカケなんてのは、こんな感じのほうが書きやすいというものだ。
続きを読む ちむにどんどんしてほしい20代から30代にかけて、多少なりとも出版業界の片隅で情報発信を生業としてきた。
当時は雑誌メディアもまだ元気で、会社に泊まることなどしょっちゅう。ていうか、自分専用の布団を持ち込んだりもしていたほどだ。当時ぎっくり腰を患ったりしたのが発端だったが、社屋が広かったことともあり、布団に寝っ転がってゲラに朱入れをしたりする姿は、思い起こすだに異様な光景である。
給湯室には「シャンプー禁止」の張り紙があり、昼間のトイレの個室からは、しばしば誰かのいびきが聞こえてきた。昭和の名残がまだある、最後のモーレツな時代だった。自分のタイトルも徐々に上がり、最終的には編集長として先頭に立った。
ライバル媒体との闘い(部数争い)も熾烈だった。デイリーでわかる紀伊國屋書店の売上実数に一喜一憂し、半期にいちど、ABCという雑誌の実売部数調査の結果を心待ちにし、買ったり負けたりを繰り返す。
こんなところではとても書けないような嫌がらせを受けたりもした。同じく、こんなところではとても書けないようなイイ話もあった。
そんな遠い記憶が、全裸監督を見ながらフツフツと思い出された。
全裸監督は、「エロ」というゆらぎない「芯」がありつつも、その実は、野心に溢れるクリエイターたちが血と汗と涙と精液を流しながら、どうにかして「売れる」ものを作ろうとする物語でもある。
私は夜更けの自室でヘッドフォンをしながら2日かけてエピソード1すべてを観たが、とにかく魂の震えが止まらなかった。
売れるコンテンツを作るというのは、かくも熱く、激しく、そして孤独な世界に身を投じる覚悟が必要なのである。作品に魂を込めると言うは易しいが、実行するとなると、周囲を巻き込んで脇目も振らずに突き進むしかないのだ。
マニュアルやマーケットデータに踊らされたような作品や、鼻くそほじりながらコピペした文章を適当に切り貼りしたようなネット記事が履いて捨てるほど溢れる世の中で、燦然ときらめく作品、それが全裸監督である。
もはやNetflixの解約など考えられない。令和に生きる我々には、NHKとNetflixとAmazonPrimeとDAZNさえあればよいのだ。
祝・シーズン2制作決定!
CDと決別することにした。
具体的には、自宅にある音楽CDのコレクションをすべて売却すべく、徐々に手を付けている。
およそ1000枚。これでも何度かの売却機会kを経て生き残った精鋭、つまりはお気に入りの音楽たちだが、ビリー・ジョエルやツェッペリンのリマスター紙ジャケはもちろん、ムーンライダーズの秘蔵アイテム、超プレミアが付いているエレカシの3枚目など、別け隔てなく処分するつもりだ。
DiskUnionなどに一括で売却することも考えたが、1枚ずつメルカリに出している。十把一絡げで買取してもらうより、1枚ずつ、あるいはある程度セットでフリマに出したほうが手残りが圧倒的に多くなるからだ。
ただし、途方もなく手間がかかる。
1枚ずつ商品写真の撮影、盤面のチェック、販売文言の記載をして、売れたら売れたで個別梱包と発送、ときにはコメントの返信や面倒な値切り交渉の相手までしなくてはならない。
いま、邦楽の50音順の「さ」行の終盤にさしかかったところだが、出品するそばから売れたりもするし、なかなかに骨が折れる。洋楽のZまで到達するのにどれくらいかかるだろうか……想像するだに恐ろしいものの、暇を見つけてボチボチやっていくつもりだ。
この、メルカリをめぐる悲喜こもごもについては、そのうち改めて書くかもしれない。
音楽ソースのデータ化は、MP3から一般化した。以来20年以上がたち、気がつけば日々接している音楽はそのほとんどがリッピングされたデータや配信となっている。
再生を目的として音楽CDを持ち出す機会は、ほぼ絶滅した。そしてもうすぐ完全な死を迎える。
今更なにをとおっしゃるかもしれないが、確かに我ながら気づくのが遅かったと思う。自部屋や外出時はデジタル音源でいいし、リビングではここのところアナログレコードをかけまくっている。なんの問題もない。すでに自前のコレクションはすべてALACにてリッピング済みなので、データ品質的にも申し分ない。
今後は好きなアーティストの新譜が出たら、ハイレゾ配信があればそれを買う。なければとりあえずCDを買い、リッピング後にすぐメルカリに出すことになりそうだ。もちろんアナログ盤も同時に出してくれるなら、配信やCDは買わない。レコードをデータ化するのは昔ほど大変な作業でもないし、むしろWAVで取り込めば自家製ハイレゾ音源となるぶん有り難いくらいだ。
ノイズ? もうノイズも気にならないなあ。大した再生環境じゃないけれども。
海外では、アナログを買うとダウンロードコードが付いてくるとか、普通に一般化している。日本もそうなればいいんだけどね。なお、ちまたでは、Spotifyなどのサブスクも流行しているようだが、あれはあれで自分の嗜好には合わないんだよなあ(いまのところ)。
自分が高校生の頃に登場した音楽CDは、世の中的にはまだもう少し生きながらえるかもしれない。日本はCDの売上がまだ大きい、世界的に得意な市場だったりもするらしいし。
だがCDというメディアそのものの寿命もあるうえに(一説には10年という話もあったが)、これだけソースとして使用されない現実がある以上、もはや使命は終わった。
よく覚えている。カナダの3人組バンド、RUSHがPOWER WINDOWというアルバムを出したときのことだ。
当時、まだCDを再生できる環境が自宅になかった。でも、レコードとCDの両方が発売された。兄は「そんなん当然CDだわ」と言っていたが、迷いに迷って、LPを買った。
自分が買う最期のLPは、このアルバムになるのか……。そんな思いを抱き、レジで受け取った。
あれから35年。せっせとCDを売り、LPを買っている自分がいるというのは滑稽なものである。
この歳になると、友人知人の訃報がチラホラ出始める。仕方がないことではあるが、それにしても今日の話はこたえた。ガックリきた。
いろんな人に愛される方だった。同僚や取引先、彼のまわりにはいつも人だかりがあった。
ぼくと彼との接点は、時間にして1年にも満たない。一昨年の3月に初めて会って、その年の12月には彼が会社を辞めてしまったから、たったの9ヶ月だ。
初めて会ったのは、人事異動の話が出たからだ。ぼくが異動する先の上司が彼だった。内線をかけて、トコトコと会いに行った。
話を大雑把にまとめると、異動先の部門には私のことをよく思っていない人間が多く、自分にしてみれば「よく受け取ったな」というのが率直なところだった。
初めて会ったときも、ひととおり業務の話が終わってから、そんなことを口にした覚えがある。よくオレなんかを受け取りましたね、と。
彼は、(正確には覚えていないが)こんなことを言ったと思う。
キミのことは色んな人から聞いているが、詳しいところを知ったら、まったく問題ないと思った。
その後、半年くらいかけて組織にメスを入れまくり、相変わらず敵が増えたりもしたが、同時に味方も大勢できた。いつの間にか、それなりの成果が出ていた。
飲みにいったとき、「なー、オマエは大丈夫だと思ってたよー」とゲラゲラ笑うのを見て、嗚呼、だからこの人はいろんな人から愛されてるのだな、ということがよくわかった。
彼がいろんな事情で退職してから、一度だけ飲みに行った。それが最後の夜になってしまった。じつに愉快で、楽しい夜だった。
生きている人間は、死んでしまった人間のことを想いながら酒を呑むことができる。
今夜、そうしようと思う。
梅雨入り前の初夏の週末。この時期は必ず野川公園を訪れるようにしている。
もちろん、元GHQのゴルフ場という広大な芝生に寝転がってビールを飲むのも目的のひとつ。ちょうど(風前の灯の)伊勢丹府中店で大北海道展をやっていたので、これまで買ったこともなかった海鮮弁当なんぞを誂え、訪れた。
ムスメの楽しみは、いわゆる「ガサガサ」だ。野川の川っぺりを網でガサガサやると、小魚やエビが入ってくる。近所のガ……子供らに混ざって、サンダルで流れにジャブジャブして無心に網を入れるのを見ていると、遠い日の自分の姿にも重なるところがある。
いやいや、梅雨入り前のこの時期、なにが重要かって、桑の実である。
小金井在住の友人から水曜日あたりに連絡が来て、「そろそろ収穫ですよ」というので、今年は気合を入れてジップロックの容器を持参した。これまでは適当に摘んで口に放り込むだけであったが、今年はそれなりの量を集めて、ジャムにしようという目論見である。
前日の土曜日で取りつくされてるんじゃないかと心配していたが、杞憂であった。
子供らの背が届くあたりの実は少なかったが、大人の背丈で届くところは、ちょうど黒く熟した実がたわわになっている。これが意味するところは、もちろん分かる。真っ当なオトナは、桑の実になど執着しないのだ。
まあいいさ。とりあえず容器いっぱい詰め込んで、ほくそ笑むのであった。
なお桑の実の処理だが、流水にさらしてよく洗ったら、ヘタを取り冷凍しておいた。冷凍することによって細胞膜がつぶれてペクチンが出やすくなるとかなんとか。
妻も子も、桑の実には興味なさそうなので、そのうちワイルドなジャムを作り、味見をさせてやろう。
実の熟し具合を見る限り、次の週末までは楽しめそうだ>来年の自分
30℃超えの猛暑日、ひとり錦糸町に向かった。お目当ては、新日フィルの生オケシネマ。チャップリンのThe Kidだ。
子供も連れて行こうかと思っていたのだが、事前にYouTubeで見せたところ「なんか怖い」というので単独行と相成った。カミさんには申し訳ないが、遠慮なく羽根を伸ばさせていただこう。
すみだトリフォニーホールは、大昔に同じく生オケシネマの『街の灯』で来て以来。当時に比べると駅のまわりも整然としており、なによりスカイツリーができている。調べてみたら、街の灯は2017年にもやってたが、自分が見たのはもっと前のやつだ。何年前だったんだろう……。まあいいか。
The Kid自体は60分ということで、前座というか露払い的に『担へ銃(つつ)』というコミカル作品が演奏&上映された。これはこれでテンポもよくて面白い。
休憩を挟んで、いよいよThe Kidである。
この作品は、子供の頃にNHKかなんかで見て号泣した覚えがある。初めて泣いた映画なのかもしれない。
とにかく子役のジャッキー・クーガンが可愛すぎてたまらんのだけど、連れ去られるところの演技が抜群に素晴らしく、何十回も見ているがいつも同じところで涙が出る。
そんなわけで、この日もハンカチレディで臨んだわけだが、上映開始直後の演奏が始まった途端、涙腺が崩壊してしまった。これぞ生演奏のチカラか。テレビ画面からは想像も付かなかった破壊力である。
ああ、この瞬間のために、わざわざ錦糸町くんだりまでやってきたのだ。冒頭10秒で、十分モトは取った、そんな気分にさせてくれる。
例のシーンでは会場全体がすすり泣き。全体的に客層は年齢高めだったが、じーちゃんもばーちゃんも、おにーちゃんもおねーちゃんも、そして勿論ワタクシも感極まっている。そしてフィナーレ。
終演後はトボトボと北斎通りを歩き、両国へ。翌日だったらトランプが来るってんで周辺はモノモノしかったかもしれないが、どうにか結びの一番前に「亀戸餃子 両国店」のカウンターに滑り込んだ。
映画の余韻に浸りながら、レモンサワーと餃子を流し込み、しみじみとシアワセを噛み締めた。
宮城県白石市の名物として、白石温麺(うーめん)なるものがあると知ったのは最近のことだ。
素麺とは異なり、食用油を使わないためアッサリ風味で、するすると食べられるのが特徴だという。
今から四百年ほど前、伊達藩白石城下に鈴木味右衛門という人がおりました。
父が胃を病んで床に伏し何日も絶食しなければなりませんでした。親思いの味右衛門は大変心配して、何か良い食餌療法はないかと八方手を尽くしたところ、たまたま旅の僧から油を一切使わない麺の製法を耳にし、これを作って温め父に勧めたところ、胃病は日ならずして快方に向かい、やがて全快したということです。
油を使わないで作る麺は胃にやさしく消化も良いので回復を早めたのでしょう。白石城の片倉小十郎公は、前記の孝行話の「温かい思いやりの心」を称え、その麺を「温麺(うーめん)」と名付け、地場産品として奨励しました。
白石市 きちみ製麺HPより
https://www.tsurigane.com/origin.html
問題は、それに続く一節だ。
この油を使わない伝統的製法は、その後秋田県稲川町に伝わり稲庭うどんとなったとも言われております。
宮城県白石市と秋田県湯沢市稲庭。この遠く離れた二つの地を繋げたものがあるとすれば、それは仙北街道に他ならないのではないか。
湯沢市稲庭は、仙北街道の秋田側にある。白石温麺が、水沢を経て仙北街道を辿り、東成瀬から稲庭(稲川)へと伝わったとしても何の不思議もない。ましてや保存食としても優秀な白石温麺は、仙北街道を歩く旅人たちにとって必携の食料だったのかもしれない。
稲庭うどんの発祥については諸説あるようだが、仙北街道を往く旅人によってもたらされ、日本三大うどんとも称されるにまで発展したのであれば、これも古道ならではの浪漫ではなかろうか。
今年の夏は仙北街道を歩く予定なので、いいタイミングで白石温麺のことを知ることができたと、まあそういう話でした。
かつて友人が、加齢とともに桜ではなく梅を愛でるようになった、と言った。大いに首肯するところである。私も実際、蝋梅に始まる梅の季節が好きで、近所の梅林には毎年必ず足を向ける。
そういえば新しい元号の令和もまた、梅との関わりがあるが、梅以上に心待ちにしているのは春の新芽だ。
この季節、日々刻々と移ろう欅の新芽を毎朝眺めて出勤している。
ちょうど同じ時期に賑わう桜に比べれば確かに地味かもしれないが、目にまぶしい萌黄が徐々に色濃く、そして大きく成長していく様を見ては、頬を緩めている。子供の成長にも似ているのだな。
むかし住んでいた阿佐ヶ谷もそうだが、府中の欅並木はこの時期本当に素晴らしい。この街に住んでよかったと、枯葉のごときオッサンはしみじみ思うのだ。
いよいよ、Game of Thronesのシーズン8が始まります!っても、4月15日(米国時間)からで、スターチャンネルなら翌16日朝から同時放送されるんでしょうけど、アタシゃAmazon Prime待ちなので、もう少しタイムラグありそうです。
シーズン7のときにはスターチャンネルの翌日にはAmazonに来てたそうなんで、17日とかには見られるといいなあ、なんて希望的観測。このあたり、たぶん直前でAmazonからアナウンスあるはず!と信じておりますが。
ちょっと前の話になりますが、そこそこ満足度の高いトレーラーも公開されてたので、メモ書き的な文章を掲載します。もちろんシーズン7までのネタバレが含まれます…っていうか、それ前提の話になるので、まだ未見であるという人は、本当にこんなクソみたいな文章をボンヤリ眺めたりしないで、今すぐシーズン1の1話を見てください。ホンマ頼んます。
ちょうど1年前くらいに初めて見て、度肝を抜かれてそれ以来シーズン7まで5周くらいしてます。とにかくこんなにオモロイ映像作品は生まれて初めて!ってくらいハマっておりますのでそこんとこヨロシコ。
続きを読む 冬がはじまるよ【GoT】女優の山田真歩さんが初めて「男はつらいよ」シリーズを見て、それが「夕焼け小焼け」であったという話を読んだ。
じつは私も「夕焼け小焼け」は大好きな作品であり、シリーズでも少なくともトップ3、下手するとベストという位置づけだ。
でも、どんなところがいいのか、薄ぼんやりしていたので検証してみる。
「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」はシリーズ第17作となる。宇野重吉が日本画の大家・堀之内青観、太地喜和子がマドンナとして、播州龍野の芸者・ぼたんを演じている。
序盤の、青観と寅の出会いや、とらやでのやり取りからして傑作だ。金を持たないがために無銭飲食を咎められた老人を寅が助け、そのまま酔っ払ってとらやに転がり込むわけだが、青観の正体が分かる頃には当の本人は帰宅してしまう。定番のコミカルな演出が冴え渡る。
ところで寅さんといえば、誰もが知るフォーマットとしてマドンナ役に恋をし、結局は実らないというものがある。定型としてマドンナの周辺にはかならず男性がいたりして、最終的にはその男とマドンナの恋の橋渡し役までしてしまうことさえある。
だが、「夕焼け小焼け」においてはその型は用意されていない。
ぼたんは寅に対して恋慕の情を見せるし、寅は寅で、さくらにぼたんの想いをほのめかされ真顔になるが、明確に恋が破れるといった展開にはならない。そもそもラストシーンで寅はぼたんに会いに龍野に行っているのだ。
シリーズ全体を見渡しても不思議な関係である。
明確な、好いた好かれたがないかわりに、ぼたんはある覚悟を持って上京し、とらやを訪れる。
底抜けの明るさで周囲を盛り上げるぼたんだが、大きな問題を抱えている。そしてその問題は、とても若い女性が解決できるようなものではないし、タコ社長や、もちろん寅にもどうしようもない。
だからこそ、とらやメンバーの「どうにかしてやりたい」という気持ちや行動がぼたんに通じたとき、落涙を禁じ得ないシリーズ屈指の名シーンとなる。
無い知恵を絞った寅は、青観を頼る。だがここでもひと悶着あり、寅の願いは叶わない。啖呵を切って、出ていってしまう。ひとりポツンと残された青観の背中も印象的で、ラストシーンへの布石ともなる。
龍野における、青観と老女の邂逅も、この作品における見どころのひとつだ。多くは語られないが、かつて恋仲であったであろう老いた二人が交わす言葉ひとつひとつに重みがあり、全体のアクセントになっている。青観が乗る車を見送るシーンが、なんとも言えない余韻を残す。
おまけだが、龍野のシーンでは宇野重吉と寺尾聰の親子共演もあったりする。
まとめよう。
私がこの作品をこよなく愛するのは、人が人を想う気持ち、その尊さを、多様なパターンで盛り込んだ点にある。
寅を筆頭とするとらやのメンバーがぼたんに対して、また青観はかつての恋人に、そして寅やぼたんに。青観と親しい時期があった老女は青観に。とりわけ、兄弟を養いながら芸者をしている、有り体に言えば金に困っているぼたんが最後に見せる心意気。そして寅の行動。これほどまでに人の人に対する想いが輻輳し、噛み合った作品は珍しいのではないか。
そしてそれは、寅とマドンナの恋路という定型にこだわらなかったからこそ実現できたのではないかとも思う。
多くの人が、見終わったあとに得も言われぬ多幸感に身を浸すことになるはずだ。こんな駄文を読ませておいて言うのもナニだが、さっさとAmazon PrimeとかNetflixで検索して、本編をご覧いただきたい。
<人と付き合う上での煩わしさ>
考えてみると、その、もともと人間と人間が一緒に暮らしていくってことは、いろんな煩わしいことをたくさんクリアしないとできないことなんじゃないかと。それはかなり我慢しなけりゃいけないことがいっぱいあるんじゃないかと思いますね。
それは隣近所の付き合いだって同じなんじゃないかな。地域の人どうしが仲良くするために、払わなきゃいけない、さまざまな面倒臭さを含めて、人間の社会はあるわけだからね。
だから、そういうことを面白がるようになんなきゃいけないんじゃないのかな。そういうふうに同じように地域に住むってことは、あるいは家族が家族であるってことは、そういう面倒くさい煩わしいことをちゃんと覚悟しなきゃいけないだろう、と。それをクリアするという術をみんな身につけなきゃいけないだろう。
そうじゃないと仲良くできないし、そういうことをクリアしたうえではじめて本当に仲がいい、ああ一緒にいるといいなという瞬間をあじわうことができるんじゃないかと思いますね。
そういう意味では今の時代は本当に、隣近所の付き合いも家族の付き合いもどんどんどんどん、なんというかこの、機能的にしかならなくなってしまってね、人間と人間との情愛が切れてしまった時代。いったいどうすりゃいいんだろうということは、誰でも悩んでいるんじゃないかな。
2018/11/24放送
『さくらと民子、そして…山田洋次が描いた家族のかたち』より(NHK-BSP)
子供の通学に合わせて、わりとラッシュな時間帯に通勤するようになって半年以上が経過した。6時半の起床にも慣れ、深酒をしてもどうにか起きて、必ず朝飯を食べてから娘を伴って電車に乗る生活である。
オフィスにはだいたい一番のり。といっても9時頃なので普通の会社にお勤めの方にしてみれば笑っちゃうようなことかもしれないが、それでも他のスタッフがゾロゾロとやってくる10時までの1時間は、静かな環境で仕事ができるので効率的である。
郊外に住んでいるせいか、いつも利用している電車は「頑張れば座れる」程度には空いている。この生活が始まった当初は乗る車両もいろいろ試していたが、最近ではほぼ固定された。周囲の乗客もだいたい同じメンバーで、お互いの認識率は相当高いものと思われる(子連れは目立つしね)。
で、タイトルの通りなのだが私はできるだけ優先席を狙って娘と二人で座るようにしている。
優先席付近はホームで並んでいる人も他に比べると少なめなであり、ある程度余裕を持って行けばだいたい座席を確保することができるのだ。
小さな子供連れが優先席に座っている状況は、ひょっとしたら他の乗客にしてみれば噴飯モノかもしれない。小学生なら立つべきとの声が一定以上あるということも承知している。だが、私はあえて優先席に座る。
なぜかというと、座席を必要とする人に席を譲るためだ。
朝に限らず、通勤通学電車ではたいていの人はスマホをいじるか寝ているかのどちらかだ。そして、とりわけ朝の優先席に座ろうとする人ほど、座るやいなやイヤホンをして腕を組み、寝入る人がほとんどである。
眼の前に妊婦さんがいようが、足腰が弱そうな御老人がいようが、分からんもんね知らんもんねと下を向いて眠っている。
そうした風景を何度か見て以来、私は優先席に率先して座るようにして、駅につくたびに乗り込んでくる乗客を確認し、席を譲るべき人が来たら率先して座ってもらうようになった。娘は途中で下車するが、それまでにもうひとり譲るべき人が来たら立たせるようにしている。もちろん優先席とはどのような存在かということはきちんと説明済みだ。
ただの偽善かもしれない。だが、自分にとっては小さな闘いだとも思っている。
今ではなんとなくの「馴染み」というか、何度か席を譲っているうちにお互いを認識するようになった人も何人かできたほどだ。下車時に会釈を交わしたりすることもあり、とてもうれしい。
席を譲るという行為は、それはそれで難易度が高い。
対象を認識したら躊躇なく行動したほうがよいし、よく見聞きするトラブルとしては「人を年寄り扱いするな!」的な展開もあるかもしれない。
マタニティーマークとヘルプカードは即対応、杖を持った老人も同様だが、お年を召していてもスーツを着ている勤め人風は対象外、などとなんとなくのルールを自分で決めているが、判断が難しそうなご老人には「よかったら座りませんか?」的な声がけをするようにしている。
さっきも書いたが、自分はいい人ぶった偽善者かもしれない。それでも今朝も、また明日も、優先席に座るべくホームに立ち続けようと思っている。
※写真はイメージです
実験的にTweetを連続して埋め込む投稿というものをやってみる。
こんな時間にカレーを作り始めるのであった。 pic.twitter.com/CnSc7fFaPT
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
飴色玉葱になったら生姜と大蒜のすりおろしを水に溶かしたものを投入して、水分が飛ぶまで炒める。 pic.twitter.com/KVTTlcpcsf
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
水分がほぼほぼ飛んだら、トマト缶200グラム(大きな缶の半分)を投入して、同様に水分が飛ぶまで炒める。 pic.twitter.com/ZOj6qSSIBc
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
これは、鶏モモ肉をヨーグルト、レモン汁、ミックススパイスでマリネしておいたもの。日曜の夜に仕込んだので、だいたい48時間。 pic.twitter.com/i9mIgyemeR
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
水分飛んだところでドーン!と。 pic.twitter.com/1pKs1tyL2V
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
塩もパラっと加えて混ぜると、だんだんソレっぽくなってくる。汗だく。 pic.twitter.com/EFjwqBS5km
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
コンソメスープを何回かに分けて注いだところ。ここから30分ほど煮込む。 pic.twitter.com/HiSGTUOLTa
— nzs (@habakari) 2018年10月9日
脂が浮いてきたら、バターを入れて乳化促進。味見して、お好みの隠し味で調整したら完成。粗熱取れたら鍋ごと冷蔵庫に入れて、明日の朝食に。
以上、同郷のカレー番長によるインド風カレーでした。 pic.twitter.com/BbLoEpKZBz— nzs (@habakari) 2018年10月9日
肝心のカレーの味だが、このままだと若干酸味が強い。トマトを気持ち減らしつつ、何らかの方法で甘みを補うと子供の舌にもいい感じ。砂糖を普通に使って、あとは蜂蜜で調整かな。
それとコンソメは300ミリリットルのお湯で溶かして入れたが、この量はもっとあってもよかったかもしれない(シャビー感が増す)。
個人的には、家で作るカレーはやっぱり欧風がいいかなあ〜。
子供の頃からラーメンが好きだった。親類の集まりかなんかで「メシでも食おうか」となると、必ずラーメン!と連呼しては周囲を辟易とさせていた。
この辺にはラーメン屋などないぞ、という声になにくそと探し当てたこともあるが、それはまさしく「どさん子」だったのをよく覚えている。
どさん子はググるといろいろ出てくるが、さまざまな派生形がある。府中の自宅近所には「どさん娘」なる店があったりするが、なかなかにカオスだ。
最もポピュラーと思われるのはやはり、赤い地の庇に食染め抜かれたロゴ、嘴がドンブリなペリカンのどさん子ではなかろうか。
そのどさん子だが、近年のラーメン屋の全体的なレベル向上に押されてか、昔に比べるとすっかり存在感が薄くなってしまっている。
そんな苦境を打開せんと、いくつかの店舗をリブランドし、新たな展開を仕掛けているようだ。そのうちのひとつが実家近辺にあり、このたびようやく訪れることができた。
21時頃ということで、入店時の客はゼロ。いささか寂しいが、とりあえずの生ビールと餃子で様子を見る。
老夫婦が切り盛りしているらしく、おかみさんがそそくさとビールを注いでくれた。フルタイムってこともないだろうけど、リブランドというよりは完全に古き佳き昭和テイストである。
餃子はもやしを添えた浜松スタイル。この辺りは店舗ごとの味付けなのかもしれない。
程よいタイミングで「赤練」なる味噌ラーメンをオーダー。ほかには「金練」「白練」「昔ながらの味噌」など。ここは昔ながらの味噌でバター乗せが正解だったのかもしれない。味は、ふつうにおいしい。
なんだろう、「あー、これだよこれ、これぞどさん子だよ!」みたいなエモい展開にはならず、そのうち草野球帰りの団体がワチャッと入ってきたりしたので、食べ終えたところでサクッと席を立った。
最後にひとくち水を、とグラスに手を伸ばしたとき、昔ながらのどさん子を見つけたが、裏を返せば幼少の頃の美化された思い出はそこにしかなかったともいえる。
平成の世で、昭和の飲食チェーンが生き抜くこと自体ハードルが高いだろうが、気軽で安心な町中華のような立ち位置で、意外と地元には根付いているのかもしれない。
EPOというアーティストが1987年に作った「GO GO EPO」というアルバムの最後の曲のことだ。
なんのことはない、かつて恋人同士だった男女が偶然に再会し、束の間ともに過ごし、そして別れていくという、そういう歌だ。
この曲、たぶん大学1年生くらいの頃に初めて聴いたので、時代はまあバブルであり、J-POPであり、合わない人にはまったく合わない。
でもね、これがすごくツボったんですね。
なんといっても楽曲とアレンジがものすごく良い。もともとEPOという人が作る曲は、びっくりするくらい良いことがけっこうあって、でもあんまり世間的には評価されてないというか、すごい曲に限ってシングルカットされてないというか。
わかりづらいんかなあ……。
あと恥ずかしながら、歌詞がとても素敵なのである。もし昔の恋人にどこかで再会することがあったとして、相手がこんな気持になってくれたらとてもいいなあ(オトコ側として)というか、そういう内容なんである。
まあ興味があれば、適当にググってください。
ずいぶんと前の話になるんだけど、やはりこれは書き残しておかないといけないだろう。今年2月、まだ雪深い山で、狩りに同行した。狙ったのは鹿だが、実際にはイノシシを仕留め、解体した。
場所は沼田の奥。ほぼほぼ足利山塊で皇海山を源流とする泙川水系の中流域である。
狩猟免許を持っている、地元の猟友会のU氏が撃ち手であり、会社近所のラーメン屋の常連たちは勢子となり、運が良けりゃ何か仕留められるっしょと出かけたのである。
オータ君と出会ったのは、10代の頃だ。
高田馬場の駅前にムトウ楽器という楽器屋があったんだけど、昔の楽器屋だからバンドメンバーの募集のチラシ(電話番号を書いた部分を千切れるように切れ込みが入ってるようなやつ)がいっぱい貼ってあるわけです。
内容はよく覚えていないが、オリジナル曲をやってることと、なんとなくの音楽的志向が一致したのであろう。たまたま目に止まったチラシが、私とオータ君のバンドとを結びつけてくれた。
音楽的志向というのも曖昧な言葉だが、おそらくチラシには洋楽ではストーンズ系、邦楽では、たぶん確実にRed Warriorsの名前はあったはずだ。
なぜなら顔合わせのときに、課題曲としてRed Warriorsの曲をいくつか演奏した記憶があるからだ。
私はどうやらおメガネに叶ったらしく、晴れてオータ君のバンドのベーシストとして採用された。
オータ君はライブ終盤のメンバー紹介のとき、必ず「オンドラムス、ワンナイトファッカーオータァ!」と呼ばれていた。もちろん、Red Warriorsのファースト・アルバムに収録されている、WIld Cherryという曲が元ネタである。
たぶん、1回だけナンパに成功した武勇伝をドヤ顔で話した結果、メンバーの不興を買い、このような不名誉な二つ名で呼ばれるようになったのだろう。
ギターのイトー君、ボーカルのマツモトも個性的なメンバーだった。彼らについても書きたいことはいっぱいあるんだけど、やっぱりワンナイトファッカーと呼ばれた男・オータ君は、Red Warriorsについて書こうとしたとき、どうしても触れずにはいられない。
そう。私はRed Warriorsについて書こうとしている。
理由は単純で、先日再結成のライブに行ったからだ。
続きを読む Red’sのライブとオータ君の話
ブラジル以降よく言われる「自分たちのサッカー」って、華麗なパス回しで勝ちたい、要は「カッコよく勝ちたい」ということなのだと理解している。だが、アイスランドやメキシコの堅守速攻は、控えめに言って無茶苦茶カッコ良かった。今夜、果たしてどうなるか。
— nzs (@habakari) June 18, 2018
ロシアW杯、コロンビア戦の前に上のようなツイートをした。彼我の戦力差を見るに、メキシコがドイツを翻弄したような堅守速攻スタイルでないと太刀打ちできないのではないか、いい気になって前掛かりに行ったら虐殺されるのではないかと心配していたのだ。
蓋を開けてみたら、ご存知のとおりの結果である。
とはいえ初戦は開始直後のラッキーな展開もあり、必然的にポゼッションが高まった。ただし攻めあぐねている印象も強く、真価が問われるのは2戦目となろう。
相手は競合ポーランドをチンチンにしたセネガルである。
初戦で勝ち点3をもらったのだから無理せずドローで御の字、今度こそ入り方を間違えたらズタズタにされる……そんな危惧を抱いていた。
だが蓋を開けてみたら、ご存知のとおりの結果である。
先制されたのに追いつき、勝ち越されてもまた追いつき。
しかも相手の先制点は明らかなミスによる献上、さらには勝ち越されはしたものの終始攻め込み、何度も相手ゴールを脅かした上でのドローである。
明らかな格上相手にこの試合内容。これが本当に日本代表なのかと困惑するほどの、かなり控えめに言って過去数十年で最も見ていて楽しい代表の試合だった。
印象に残ったのは、状況に応じて攻め方やポジションを変える柔軟性だ。大迫のワントップ頼みではなく、攻撃パターンが多彩であった。もちろん実際に2失点しているわけだから危ないケースも多々あったわけだが、ゲームを支配しているという意味でも、間違いなく日本のサッカーは面白かった。
海外での評価も上々のようで、日韓W杯のときのアイルランドのような立場なのかもしれない。
ケイスケホンダも、こう語っている。
「特にセネガル戦は2014年に僕らが目指した、よく僕が言っていた“自分たちのサッカー”を表現できた戦い方だったと思う。(中略)2014年のときにやりたかったことをたまたま西野さんがやっているなという印象がある」
「ジャンケンみたいなもので、(相手に)チョキを出されると分かっていて、なんでパーにこだわる必要があるのかというだけの話」。自分たちのことだけを考え、とにかくパーだけにこだわっていたのが4年前なら、今は相手を研究し、相手の“出し手”を読んだうえでチョキもグーも出せるのが今の日本代表というのが本田の意見だ。
https://web.gekisaka.jp/news/detail/?248227-248227-fl
フィジカルやスピードでは敵わない相手に対してここまでやれるようになったかと、4年前のコートジボワール戦を思い出しながら感慨に浸った夜であった。
だが、私はまだ疑っている。
第3戦の相手、ポーランドは極めてヨーロッパなスタイルのサッカーをする。絶対的なエースもいる。
予選敗退が決まっているという意味においてはモチベーションに影響はあろうが、むしろ勝ちたいという意識は強いかもしれない。
ポーランド相手に互角以上に渡り合い、勝ち点を奪えるのであれば、願わくば勝利を手にすることができるのであれば、目指していたものを体現できたという意味で私も「自分たちのサッカー」とやらを素直に認めよう。ていうかもう、手のひらが720°くらい回転しておりますが。
報道によると、長谷部や大迫は先発しないかもしれない。いっそ、右もムトゥにしてもいいかもしれない。ていうか、明白なターンオーバーで予選突破できるくらいのしたたかさがほしい。
さすればイングランドやベルギーが相手でも勝負になる。ベスト8が見えてくる。
そんな期待をしてしまうほど、いまの代表からはかつてない「強さ」を感じるのである。
昨年末、合格してすぐに投稿しようと思ってたのに、すっかり忘れておりました。時期を逸したのでどうかとも思ったが、せっかくなので。超長文ですが。
未来の自分に向けて書いているので、妙なところまで細かったりするし、ハッキリ言って他の方が読む価値は皆無です。
◆なにゆえ受験を思い立つに至ったか
我が家からは徒歩2分くらいに公立小学校、府中第一小学校がある。「第一」という名前が付いているとおり、市内で最も古い小学校であり、創立は1873年。学制発布よりも前に存在していたという地域随一の伝統校でもある。
保育園で知り合った父兄の方の中には、この「一小」に子供を入れるため学区内に引越しをしたという方さえいる。
ついでに言うと府中市の公立小学校は校庭がすべて芝生張りという、ちょっと信じられない環境の良さだったりもする。
なので、ムスメがまだ小さかった頃は無条件で一小に入学するもんだと思っていたのだが、4歳くらいだったか、いわゆる「年少」となる学年あたりで家人とも色々話し合い、周辺の私立小学校を調べることにした。
この段階では「どこか受験してもいいんだけど、別に一小でよくね?」くらいの感覚であった。なんといっても小学生なのだから、通学にかかる時間は短いほうがいいに決まっている。
「通える範囲」にある私立となると数が限られる。いくつかピックアップしてウェブなんかを見たりもしたが、どうもピンとこない。国立大の付属、つまり学芸大付属小金井なんかもあるんだけど、通学するのにバスを2本乗り継ぐ必要があり、大人の自分が通えと言われてもゲンナリする。却下である。
どうにかこうにか、ピックアップされた小学校は2つ。どちらも、個人的にとても敬愛するアーティストの出身校というミーハーな要素もあったが、家人とも相談のうえ「ここなら受けさせてもよいし、もし受かったら大層ラッキーな話であろう」という話になった。そもそも、落ちたとしても一小でまったく問題はないのだから。
そんなわけで「お受験」をやってみることにしたわけだ。
続きを読む 小学校受験ノ記
5月3日、府中のくらやみ祭をちょっとだけ覗いてから浜松に移動した。
府中では「点滴ジュース」に心を奪われた。なんならコイツに酒を入れてチューチューしたい!
荷物が多いため泣く泣く諦めたが、浜松祭りの出店群を探しても点滴ジュースなどない。
せんべいに目玉焼きを乗せて、ソース、揚げ玉、マヨネーズをかけるというジャンク極まりない玉子せんべいや、エビなど入っていないエビ焼きなど、どっちかというとやっぱり西の文化なんだよね。
エビ焼きは型がエビなだけだが、同じ材料で今川焼き風の型に流したものは大阪焼きとも呼ばれており、なかなか紛らわしい。
地域差というか、仕切りによってトレンドとなも変わるんだろうなあ。
興味深い。
ムスメの卒園式に出席してきた。その覚書である。
そもそも同学年で1人きりという状態だったので、1人のためだけにホンマにやるんかいな?と不安ではあったのだが、かえって1人のために、いろんな先生方、スタッフの皆さんのお手数をかけてしまったのが恐縮というか、お得感マシマシというか、複雑な心境であった。
果たして当日、ムスメを先に送っていったカミさんが戻ってきたのだが、「やばい、泣いちゃうかも」とすでに涙目である。どうやら入り口のところから、ムスメがゼロ歳だったころ〜現在までの写真がバーっと掲出されており、それだけで感極まってしまった様子。
うーむ、困ったな。最後に保護者からの挨拶があって、適当にどうにかしようと軽く考えていたのだが、これは自分自身も涙腺決壊の恐れがある……。
保護者が来てもよいという指定時間になったので、我々夫妻と、カミさんのお母さん+妹さんとで出陣。
すでに先生方はもちろん、いわゆる年少〜年中のこどもたちが在園生としてキチンと椅子に座っている。
我々が席につき、いよいよスタート。
胸にお花をつけてもらったムスメが入場し、卒園証書授与やら、一連のイベントが流れていく。
歌の交換の時間では、まず卒園生から在園生へという形で歌が。1人なので独唱である。これが想像以上に堂々と、しっかり唄っており、ココロの涙腺ゲージがぐんぐん溜まる。やばい、確かにやばい。
次いで、ひとつの曲で一番をムスメが独唱、二番から在園生含めて全員で唱和するという、これまた破壊力のある歌が披露され、もう眼汗が吹き出しそうになる。
どうにか我慢していたが、卒園生から保護者への手紙というコーナーが!
父と母に向けての手紙を本人が朗読するという、これがまた結婚式かよ!という状態であり、完全にノックアウトである。
やられたなー。
その後の保護者挨拶では、カミさんは完全に涙目涙声であったが、私はむしろムスメや園児たちのコール&レスポンスというチカラ技(?)で乗り切り、最高に胸熱な卒園式を無事に終えることができた。
自宅至近という物理的なメリットもあったが、この園を選んで、また選んでいただいて本当によかった。途中、幼稚園に浮気させそうになったが、都合6年間という長きに渡ってムスメの成長を支えてくださり、本当に感謝しかない。
うれしいことに、卒園してもいっぱい遊びに来てくれとのお言葉も頂いたので、ランドセルしょって、下校時に立ち寄ったりもするのだろう。
卒園おめでとう。
今夜、横浜DeNAベイスターズが広島東洋カープを破り、3位から、しかも首位カープと14.5ゲーム差というシーズンでは大差を付けられた状態からの日本シリーズ出場を決めた。
きっとスポーツニュースや新聞、さまざまなメディアでCSというものについて議論が活溌になるだろう。やれ10ゲーム差付いたらアドバンテージを2にせよ、そもそもCSは要らん、いっそ地域ごとにリーグ再編せよ、だの。
ワタクシ個人としては幼少からのホークスファンであり、最近では昔ほど熱心に見てはいないが、それでも気になるチームではある。
そんなわけで、このブログでも旧プレーオフやCSで敗退することについて度々取り上げてきた。
今年もイーグルス相手にあわや、という状態だったようだし、下手したら3位同士の日本シリーズもあり得たわけで、そうなったらそうなったで面白かったかもしれない。
結論を言えば、CSは現行制度のままでよい。そう思っている。
変わらなければならないのは、CSのルールではなくファンやメディアだろうと、むしろ感じている。
長い長いシーズンを戦い抜くために必要なものと、5試合制、あるいは7試合制といった短期決戦に求められるものは必然的に大きく異る。それを忘れてはいけない。
CSや日本シリーズは短期決戦だ。そして、オリンピックやWBCといった国際大会もまた、明々白々に短期決戦なのである。
戦後以来のプロ野球。そろそろファンもメディアも、真剣に、短期決戦をどう克服し、勝ち抜くかについて意識を高めていかなければならない。
WBCこそ第1回第2回と連覇を果たしたが、オリンピックを含めて日本代表・侍ジャパンは短期決戦には決して強くないと感じている。むしろ、しおしおなことのほうが多かったような気がする。
なぜか。
それは、監督コーチ陣はもちろん、選手もファンもメディアも、短期決戦をきちんと研究してこなかったからだ。ワシが育てた愛着ある選手と心中しようとしたり、妙な「型」にこだわって勝利の方程式だとかなんとか。
だから、過去日本球界には名将と呼ばれた人は数多いが、日本シリーズで強いと呼ばれた監督となると、数えるほどしかいなくなる。特に投手陣の分業制が確立されたここ数十年では、さらに絞られる。
短期決戦では要所要所で臨機応変な用兵をしなければ勝ち抜くことは難しい。以前、WBCについて書いたときの繰り返しになるが、クローザーよりも重視すべきはストッパーであったり、相手との相性はもちろんベンチ入り選手の好不調をきちんと見極めた上でのスタメンなど、思考停止でなくきちんと考えて闘いに臨む姿勢がないと、良い成績を収めることは難しいだろう。
そういった意味では、今年パ・リーグのCSをどうにか勝ち抜いたホークスの工藤監督はちょっとだけ見直した。連敗スタートしたことで危機感を高めたのだろうが、城所の使い方など用兵の臨機応変さについては、少なくともバッティングオーダーでは発揮されていた。
投手起用でもジョーカー嘉弥真の使い方は上手いなと思ったが、8回9回を固定しちゃうあたり、まだまだである。反面、梨田監督は良い面も多かったが、策を弄しすぎた感のほうが強かったかな。
今年のカープのCSについては、鈴木誠也やエルドレッドを欠いていたこともあり、不運な面も確かにあった。冒頭にも書いたように、関係者やファンは本当にどん底であろう。ホークスを応援していた私には、その気持が本当によくわかる。
だが東京オリンピックで野球が復活するいま、日本球界が世界大会で好成績を収めるためにも、短期決戦の楽しみ方、批判の仕方、頭の弱い解説者の皆さんにもそのへんの意識をきちんと持ってもらって、全体的なレベルを上げる必要があると思っている。
だからこそ改めて言おう。CS制度は変える必要がない。変わるべきは、他にあるのだと。
踊ろうマチルダ、待望の新作が9月20日に発売される。じつに7年ぶりという音源発売を前にして、ワタクシは猛烈な興奮を隠せないでいる。おそらくこのアルバムは相当な傑作になるはずであり、踊ろうマチルダという歌い手の評価を一段と高め、メディアでの露出も増え、一躍スターダムを駆け上がるのではないかと思っている。
…思っているのだが、おそらくはそうはならないだろう。なんのこっちゃ。
そう、ブレイクするのならとっくにしているのである。だが、しない。近年、私が好きなアーティストでブレイクした人は皆無だ。あの寺尾紗穂でさえ、まだ一般の認知度は低い。低すぎる。
だけども、もうそういう時代でもないんだなあ、とも思う。
日本の音楽シーンが不幸だと感じるのは、ヒットチャートがひとつしかないということだ。結局のところ、それは大集団アイドル系、ジャニーズ系、大御所ベテランバンドくらいしか認知されないヒットチャートだ。
羨ましいことにアメリカだと大昔からいろんなヒットチャートがある。
R&B、ブラック、カレッジ、カントリーetc.
それぞれが独立したチャートであり、独立した支持層があり、カントリーの大物なんかはムチャクチャ稼いだりしてるのだ。
日本はオリコンに毒されている。それが良いか悪いかで言えば、個人的には巨悪であるのだが、国土も狭いし人種や文化も多様性に欠けるし仕方がない部分もあるのだろう。
本も売れないがCDも売れない。ミュージシャンは小さなハコを転々としてライブを重ね、それでも数少ないファンに直接音楽を届けようとしている。踊ろうマチルダや寺尾紗穂は、まさにそういったタイプのミュージシャンと言える。
でも、これってそんなに不幸な状況でもない。ドラマのタイアップで一発当てて大金ガッポリみたいなビジネスモデルではないけれど、それでも地道な活動が確かな評価へとつながるという意味では、良い時代になったのかもしれない。
そういえば、竹原ピストルみたいな成功例もあることだし、踊ろうマチルダがそのうち企業CMに使われることだってあるだろう。あ、そういえば寺尾紗穂はCM界ではけっこう使われてますね。パナソニックとかキャットフードとか。
ああそうだ、何の話をしてるかわからなくなってしまったが、マチルダの新作は本当に期待が持てるということを書きたいのだ。
個人的には今のマチルダは第三期と位置づけている。
釣部修宏という個人名義、あるいはNancy Whiskeyというバンド形態、つまりはインディーズでのデビュー当時が第一期。
サポートミュージシャンの協力を得たりして、DVDにもなってるけど、チャラン・ポ・ランタンの小春ちゃんとかを従えてバンド編成を完成させ、NHKのドラマ『とんび』のED曲であり屈指の名曲、「箒川をわたって」を発表。踊ろうマチルダとしてのひとつのピークに達したのが第二期。
ワタクシが彼の音楽と出会ったのはまさに「箒川」からであり、それから足繁くライブにも通うようになったが、フィドル、ウッドベース、アコーディオン、それにマチルダのギターという編成は完璧の一語であった。この形態でしばらく続けてほしいと思ったのだが……そうはならなかった。
いろんな理由があるのだろう。結果的に、踊ろうマチルダはひとりでライブ活動を続けることになった。
昨年の暮れ、渋谷でライブがあったので参戦してきた。
びっくりしたのは、マチルダのギターのテクニックが驚くほど進化していたことだ。表現力が増したというか、これまでは基本的にキーを押さえながら、そこそこオカズを入れていた感じだったのが、ルート音をキープしながら変幻自在、左手動かしまくりのメロディアスなプレイとなり、唄との一体感が何段階も増した。
加えて、シュルティボックスというインドの楽器を手に入れ、こちらも大活躍していた。ペダルを踏んで空気を送ってやると特定の音を出し続けるというもので、3オクターブの音域を持つ。↓こーいうのね。
このシュルティボックスでキーの音を出し続けながら、ギターと唄を組み合わせることで、ソロとは思えないライブパフォーマンスを実現していたのには、心底驚いた。よくあれだけ楽器を弾きながら唄えるな、と。
ハーモニウムも駆使する一方、アコーディオンは封印されていた。これは、ずっとアコーディオンを抱えて唄ってきた「箒川をわたって」がライブでは演奏されないことにもつながり、そのへんは「強い意思」を感じた。「箒川」は確かに名曲なのだが、いまのマチルダの世界観とはちょっとしたズレがあるということなのだろう。
キャリアの中で最も注目された曲を演奏しないという決断は、重い。だけども、ライブで披露された新曲の数々は、その決断を肯定的に受け止められるほどであり、だからこそ今回の新作は間違いなく傑作であるとの確信につながるのである。そう、いまがまさに第三期真っ只中というわけだ。
あー、適当にツラツラ書いてたら疲れてきた。YouTubeで唯一公開されている新曲でも聴いてみよう。
あと、先日NHKで放送されていた南三陸でのライブから、「千と千尋」のテーマ曲をカバーしていたので、それも貼っつけておく。すぐ見つかって削除されるのかしら。
9月20日発売。前日にタワレコでフラゲする準備は万端である。
映画「男はつらいよ」が好きだ。ただ、そんなにマニアックに細かいところまで見てるわけではないんだが、毎週土曜日にBSジャパンでやってる放送をスマホに落として、通勤中に見ているくらいは好きだ。
あと、この本は家族が寝静まった夜中にスコッチなめながら読むと最高ですよ。
全部でシリーズ48作品あるわけで、いまや「やすらぎの郷」で老骨に鞭打って(全員か!)がんばってる浅丘ルリ子のリリー編なんかは好きだし、「寅次郎 夕焼け小焼け」も心に残る。
で、先日の放送で「寅次郎 子守唄」をやってたんだけど、思わずここに書きたくなるようなエピソードがあったのだ。といっても、どうってことない1シーンなんだが。
とある宿で寅さんが晩酌を楽しんでいると、隣の部屋から赤ん坊が泣く声が聞こえてくる。すると男の声。
「うるさいやつやなあ、静かにせえや、もう、飯くらい食わしたれや、頼むわ。静かにせい!しまいに海の中ほり込んでしまうぞ!」
などと乱暴な言葉。もちろん赤ん坊に通じるわけもなく、さらに泣き声が大きくなる。
「やかましい!見てみい、おまえのためにお汁までぬるうなってしもうとるやないか!」
この男、女房に赤子を押し付けられ逃げられたわけなのだが、そこで寅さんがスッと襖を開ける。
男を叱りつけるなんてことは、さすがにしない。とはいえ、優しく諭してやるくらいかなと思って見ていたら、寅さんはそんなことさえしないのだ。
「こっちきて一緒にやんねいかい? ひとりじゃ酒も旨かねえや。な」
そういって、男を誘って一杯やるわけである。
ああ、こういう対応を取れる大人になりたいなあ、と思った次第。
葛飾柴又には行ったこともないが、そのうち機会があれば訪れてみたいなあ。
AIは「アイ」と読む。ついでにいえば、「遺電子」はもちろん遺伝子のもじり。
なんというかなあ、未来型ブラックジャック的な? でも詳しい内容紹介など野暮だからしないけど。
この作品は自分にとってはちょっと立ち位置が一般の面白いマンガとは違っていて、作者はかつて私がいた職場でITニュースの記者をやっていた方なのだな。
直接の面識などもちろんない。ただ、かつての上司とは接点があるらしい。
そんなわけで一方的に親近感を抱いているのだが、作品の素晴らしさは別格だ。連載してるのは少年チャンピオンかな? 単行本でしか追ってないけど。
作者の方がかつて記者として活動していたサイト、ITMediaでいくつかの作品が読めるので、興味がある方は確認してみてほしい。
http://www.itmedia.co.jp/keywords/binaryfield.html
若い頃から何度繰り返して読んだかわからないマンガに、『ボーダー』がある。狩撫麻礼の代表作だが、グッとくるセリフなんかはぜんぶ覚えているくらいだ。
貧乏仲間から急にボクシングのヘビー級チャンピオンが誕生したような
そんな気分だったんだ
意味もなくハッピーを感じたんだよっ
これは、主人公3人のうちの冴えない浪人生・木村が東京大学に合格したとき、リーダーの蜂須賀がどこからか100万円を用立て、パーっとお祝いをした翌朝のセリフだ。
同じく、『大市民』という柳沢きみお先生の名作があるのだが、松本清張が死んだときの主人公・山形の語りがある。
松本清張が小説家になったのは48歳からであり、やろうと思えば50代からだって一からまたやれるのだと、中年ニートの佐竹氏に滔々と語る場面。
7月に入ってすぐ、仕事に疲れ果ててTwitterを見たら、友人からのビッグニュースが飛び込んできた。
そのとき頭に浮かんだのが、上の2作品の各シーンである。
同時に、体じゅうが言いようのないヨロコビに満ち、世界がカラフルに転じ、彩度が急激に上がる感覚に包まれた。
家庭や仕事を言い訳にしない人が、世の中に大勢いる。大いに勇気づけられ、自分にも前に進む力が湧いてくるような気になる。
友よありがとう。そしてがんばれ。俺もがんばる。
2017年3月20日であった。5歳と半年ちょい。自分はと思い起こすと小学校2年生くらいだったな。
場所は、植松公園。何度か転ぶかもと心配したが、意外とすんなり乗れた。ストライダーでバランス感覚をけ養っていたおかげだろう。
娘にとって初めての自転車は、幼馴染でいまだに地元で自転車販売業を営むK君の店で買った。Kは自転車屋の長男であったが早くに父親を亡くし、高校を出てほどなく家業を継ぎ、いまも母親や妹と頑張って働いている。昔は間口の小さな店だったのに、移転して3階建ての自宅兼店舗のビルまでおっ立てて、大きくした。
彼岸で帰省する一週間くらい前に東京から電話で注文させてもらった。こちらが恐縮するくらい、よろこんでくれた。
帰省して実家に荷物を置いたらすぐにKの店に行き、納車。地元のソフトボールチームでは4番でサードだったKが、禿げ上がった頭を何度も下げてくる。
なあKよ、俺も子供の頃に乗ってた自転車はぜんぶオマエんとこで買わせてもらっていた。そんでいま自分の子供の、それも初めての自転車をオマエのところで買えるってのは、俺のほうこそうれしいんだ。感謝したいんだ。ありがとうな。
いまどき、イオン帝国の支配下にある地方都市で、個人店を営むのが並大抵じゃないことくらい、俺にだって分かる。
俺たちが子供の頃、友達のほとんどは自営業の子供だった。それが今じゃ、ウチとオマエんとこと、酒屋と床屋くらいしか残ってない。ケーキ屋も、蕎麦屋もラーメン屋も工務店も仕出し屋も、帽子屋や煙草屋、魚屋や八百屋、それに銭湯、駄菓子屋。みな商売をやめちまった。
あの頃遊んだ連中も、皆どこかに行ってしまった。元気でやってるといいが。
お互い禿げたり太ったり。40年前の面影などどこにもないが、がんばろうな。
え、俺の娘? 顔が俺にそっくりでかわいそうだって? うるせーなこのやろう!ハゲ!
そんな感じで旧交を温めたのである。
前回に引き続き、「北の国から」ネタを続けます。先週までは「’92 巣立ち」だった。純くんが、トロ子(裕木奈江)を孕ませちゃうやつだ。
純とトロ子はもともと顔見知り程度だったが、レンタルビデオ屋での出会いにより急速にその距離を縮める。そのきっかけは、チャップリンの「ライムライト」だ。その後、ふたりは渋谷のラブホテルでビデオ鑑賞会を行うことになるのだが、最初に見たのが「ニュー・シネマ・パラダイス」であり、辛抱たまらず覆いかぶさるのは「南極物語」だったんですね。
そんな話はどうでもいいんだけど、堕胎して東京を去るというトロ子が純くんに語る言葉で、「あたし、東京を卒業するの」みたいな台詞があった。
これは言い得て妙だなあと感心した次第。地方から東京に出てきた人間にとっては、非常にシンパシーを感じるのである。
要するに、実際に通った大学にしても、東京という街にしても、留年しまくってるオノレに愕然とするわけで、このエントリーはそれを言いたかっただけなのであります。
この春、上京して30年目を迎えます。